糺の森コラムColumn

Vol.

糺の森と 谷崎潤一郎が 愛した屋敷の物語

飛行機から京都盆地を見ると糺の森の緑がくっきりと見えて大きな存在感を示しています。その森の中を歩くと樹齢数百年といわれる巨木の偉容に圧倒されます。そして森には五穀豊穣と国家の平安を祈る下鴨神社の御社が鎮座し、神々しい森として信仰を集めています。
このような糺の森の東側に、森を借景にした屋敷がひっそりと佇んでいます。その屋敷は日新電機が六十五年前に谷崎潤一郎先生から譲り受け、先生に石村亭と名付けて頂いた屋敷です。石村亭は母屋と離れ、池と様々な石を配した庭からなる六百坪ほどの屋敷です。明治四十四年、洛中の大店のご亭主が先代の隠居所として創建したものです。明治の末から大正にかけては、木造建築と作庭の最後の爛熟期だそうです。石村亭もこの時代につくられた屋敷、そして糺の森の風景と一体になった屋敷ということで価値があるというのが専門家の見立てです。
石村亭と糺の森・下鴨神社とのご縁は、森を借景にさせて頂いているだけではありません。石村亭第24号 令和3年9月30日発行から糺の森に入る小道を行くと泉川に架かる小さな石橋があります。この橋から下流側を見ると何本かの短い石の柱と土管が見えます。これは泉川の水を石村亭の庭に引き込むためにつくられた堰と取水口の跡です。昭和の始めまでは泉川の水量が今より多く水位も高かったので泉川の水を引く事が出来たのです。この石橋は水を頂いたお礼に石村亭の創建者が寄贈したものです。当時の先端技術であるコンクリートでできていますが、よく見ると一枚岩で作った橋に見せるため、石を割る時に楔を打ち込む穴をわざと作り込んでいます。泉川に渡す橋がコンクリート製と分かっては恐れ多いと思ったのでしょうか。母屋の付書院の欄間には二葉葵の模様が切り抜かれ、朝日が射し込むとその影が床の間に
うっすらと映ります。何とも優美なそして下鴨神社とのご縁を感じさせる設えです。
石村亭は、こうした糺の森や下鴨神社とのご縁に加えて、昭和二十四年から七年間、文豪谷崎潤一郎が住み小説を書いていた屋敷としてその文化的価値が評価されています。
谷崎先生はこの屋敷の趣をとても気に入っておられました。先生は関東大震災から昭和三十一年までの三十三年間、阪神間や京都を中心に関西で過ごされ、その間十七回住まいを変えておられます。三十三年間で十七回ですから平均すると一か所に二年もいなかった計算になりますが、石村亭には七年間住み続けられました。先生がこの屋敷を如何に好んでいらしたかが分かります
先生にとってこの時代は「細雪」が売れ、文化勲章を受章し、経済的にも文学的にも全盛期でした。先生がこの屋敷で書かれた小説には「少将滋幹の母」「潤一郎新訳源氏物語」「鍵」などがあります。この屋敷を舞台にした小説として有名な「夢の浮橋」は、先生が京都から熱海に転居した後に書かれたものです。主人公の名前は「糺」。京都を離れて改めて糺の森や石村亭への思いが強まったのかも知れません。
日新電機は、先生から「自分が好んだ屋敷の趣をいつまでも維持してくれるなら」という条件で昭和三十一年にこの屋敷を譲り受け、それ以来先生との約束を守り続けています。「夢の浮橋」(中公文庫)には当時の石村亭の庭が描かれた挿絵が何枚か付いていますが、この絵と今の庭を比べれば先生が愛した趣が当時のまま残っていることがよくわかります。
こうした屋敷を持っていると色々な方がお越しになります。ドナルド・キーン先生は亡くなる三年前に来られました。キーン先生は谷崎先生がお住いの間、この屋敷に何度も足を運ばれたとの事でしたが、この時は谷崎先生から頂いたという浴衣をお召になり、母屋の縁側に座わりカメラに収まっておられます。その写真には、ユーモアに溢れ、誰にも優しく接し、谷崎先生を心から尊敬するキーン先生のすべてが映り込んでいるように思います。
日新電機は、これからも糺の森と下鴨神社、そして多くの方々とのご縁を大事にしながら、貴重な文化資産である石村亭を守り、活かし続けていきたいと考えています。

 

糺の森財団 評議員 小畑 英明

令和3年9月30日

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