糺の森コラムColumn

Vol.

糺の森神宮寺跡の整備事業について

はじめに

令和三年、江戸時代末まで賀茂御祖神社境内に継承されてきました神宮寺跡が整備されました。その経緯をお伝えしたいと思います。

神宮寺とは、神社に附属して建立された寺院のことです。この神宮寺は、神社の境内に寺院があったと、不思議に思われるかもしれませんが、河合社の北側に所在していました。令和元年(二〇一九)まで、河合社の北方に大きな窪地が見受けられましたが、その窪地が神宮寺本堂の前面に造られた園池(竜ガ池)です。

なぜ神宮寺は、その姿を消してしまったのでしょうか。明治政府は宗教政策の一つとして神道国教化をめざしました。そのため神仏習合を否定し、神仏分離を明治初頭に実施しました。こうした施策のため、各地にあった神宮寺は廃絶されてしまいました。賀茂御祖神社の神宮寺も例外でなく、建物すべて解体されてしまいました。しかしながら園池は往時の姿ではありませんが残されました。ところが 昭和になると周囲の環境変化に伴い地下水の低下が始まり、最後は枯渇してしまいました。

 

古図を読み解く
賀茂御祖神社の神宮寺に関係する文献史料は少なく、詳細はあまり明らかでありませんが、十一世紀前半までは確実に遡ることができます。そうしたなか、神社に所蔵されている史料に『鴨社古図』と呼ばれる神社境内のようすを描いた史料があります。この図は、明治に模写されたといわれていますが、原画は平安時代あるいは鎌倉時代の制作と推定されています。
ではこの古図から神宮寺の様子を読み解いてみましょう。境内地は、現在と同じ河合社の北側に位置しています。境内の西側と北側は、屋根を上土とした築地塀によって区画されています。東と南は生垣あるいは樹林となっています。西辺の築地塀には、正門とみられる西面した薬医門形式の表門が建てられていました。屋根は檜皮葺です。一方北面の築地には、簡易な穴門が設けられていました。

境内中央には、低い基壇の上に南面して桁行七間の本堂がありまた。屋根は入母屋造の檜皮葺のようです。建物中央の五間はいわゆる桟唐戸の扉となっています。その左右は連子窓でした。本堂の東には食堂が所在していました。規模は東西三間・南北二間で南に庇が付き、屋根は切妻造の板葺です。一方本堂の西側、表門を入って北側には、袴腰造の鐘楼が所在していました。屋根は入母屋造の檜皮葺です。かたや南側には多宝塔が建立されていました。

本堂正面南には、大きな池が掘られていました。大きさや深さは分かりませんが、北岸の汀は、緩やかな出入をしていたようです。西岸は中央部が東へ半島状に突き出ていたようです。南岸と東岸は、樹木に覆われており詳細は不明です。中島の存在や橋が架けられていたかどうかはよく分かりません。

中世の頃の様子を記す史料は知られていませんが、江戸時代の神宮寺については比較的充実しており、建物内部の間取りや境内の遺構配置などを伺い知ることができます。

 

 

地下遺構の調査

次に、平成二十六年(二〇一四)から復元整備の根拠を明確にするための確認調査が三ヶ年にわたり実施されました。その発掘成果を見てみましょう。調査で確認された遺構・遺物は平安・鎌倉時代と江戸時代に大別されます。平安・鎌倉時代の遺構としては、建物と基壇(本堂) ・多宝塔や鐘楼の基礎地盤・池・中島・井戸などが発見されました。江戸時代の遺構としては建物(観音堂) ・塀・池・中島・泉と池・溝・道路・埒・雪隠などが明らかになりました。江戸時代の建物遺構は、 『下賀茂河合舎堂絵図』などを参考に詳細な検討がなされ、遺構の規模や性格が明確になりました。

 

復元整備された遺構

最後に、復元整備された遺構特徴について説明します。発掘調査のたびごとに史跡賀茂御祖神社境内整備委員、行政関係者、発掘調査機関などによる委員会が、調査成果の評価や課題の整理を行い整備の基本方針が決定されました。その決定に基づき復元整備する遺構の時期は、調査情報が最も多く得られたに江戸時代となりました。また、発見された遺構を保存するための処置も図られ地下に眠っています。建物跡エリアには今後、見学者の方に遺構を理解していただくための解説プレートを設置する予定です。

池には水を湛えて、往時の姿を偲んでいただけるようにしました。

 

糺の森財団 理事 鈴木久男

令和4年3月31日

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