糺の森コラムColumn

Vol.1

糺の森の来歴

京都市市街地の東北部、賀茂川と高野川が交わるところ、そこには京都王城鎮護の社、賀茂御祖神社かもみおやじんじゃ(下鴨神社)が鎮座する。その境内は糺の森ただすのもりと呼ばれ、そこが街中であるとは到底思えないような森林が広がっている。

 

タダスという語

 

「糺」はタダスと読み、縄をよりあわせるという意であり、あわせる、あつめあわせるに通じる[i]。文字通り賀茂川・高野川が合わさった三角州にその森はあり、古代よりその幽玄な佇まいを今に伝えている。
タダスの語源については、地形的に賀茂川・高野川のデルタ地帯を指して「只洲」[ii]と称されたとか、清らかな水が澄み渡る場所から「直澄」[iii]とも表現されたことに由来するという。また、蓼が群生することから「蓼洲」がなまったものともされる。
さらに、糺すは正すに通じ、不浄を糺す為この名がついたともいう[iv]。ご祭神賀茂建角身命がもつれた縄をときほどすが如くに、民衆の争いを聞きただし、解決を計ったとの説話が伝わる[v]
江戸時代の国学者伴信友に至っては、ご祭神の多々須たたす玉依姫よるのだろう[vi]というが、諸説定まらない。
また「ただす」という語が、文献に初めてあらわれるのは、和歌においてである。
和歌には糺の森(宮・神)は数多く詠われており、最も古いものでは『新古今和歌集』巻十三に、平貞文の詠む歌に

偽を ただすのもりの ゆふだすき かけつつ ちかへ われをおもはば

とある。
他、著名なところでは『源氏物語』須磨の巻、光源氏が須磨へ流される前に詠んだ歌、

憂き世をば 今ぞ別るる とどまらむ 名をば 糺の神にまかせて

や、『枕草子』にも、

いかにして いかに知らまし 偽りを 空に糺の 神なかりせば

と、中宮定子が詠んでいる。
これらはいずれも、糺の森(宮・神)と(ものごとを)ただす・・・をかけているものであり、糺の森に平安時代から正邪をただす意味が流布していたことを示しているといえるだろう。
以上の例にみられるように、「ただす」という語を国歌大観から探すと『新古今和歌集』『玉葉』『続千載和歌集』『源氏物語』『枕草子』『太平記』等々、計156首も詠まれている。平安時代から中世を通じて大宮人たちの詩歌の題材となっていたのである。

 

 

糺の森の変遷

さて、現在の糺の森はといえば、広さが約12万4000平方メートル(内、史跡指定地10万7千平方メートル)、東京ドームにして3つ分の広大な森林をたたえ、その樹種はニレ科を中心とした落葉広葉樹林によって占められている。

ケヤキ・ムクノキ・エノキ等に代表されるニレ科の樹林は、平安遷都以前より山城平野を覆っていた樹種で、近年の糺の森の土壌調査[vii]によっても同様の樹種の花粉化石が検出されている。この森が京に都が遷される遥か以前の姿を残す、都市にあって類い稀な社叢であることが窺い知れよう。

ただし、このような糺の森も幾多の変遷を経ている。『日本紀略』永祚元年(989)、大風によって鴨河堤が流損し、賀茂上下社御殿并雑舎が転倒したとある他、『太平記』『梅松論』には足利尊氏、直義兄弟が糺の森付近に布陣したと記されている。何れも、森の被害については直接触れられていないが、大風により社殿が転倒する状況や戦場になった場面において森が無事であったとは考えにくい。白河院が鴨川と山法師(比叡山)と賽の目は思うようにならないと言ったように、鴨川はたびたび氾濫し、糺の森もまた被害をうけていたことは容易に想像できる。

また中世における神社にとっての一大事件、所謂文明の乱においては、ほとんどの社殿が焼亡したと伝わっている。この乱による被害の直後、当時の下鴨神社の最高職であった祢宜祐康と祝秀顕は本殿が焼失するという未曾有の事態に対し、糺の森の御神木をもって社殿を造営したいと朝廷に申し出ている。本来であれば平安時代以来、各地にあった多くの社領(荘園)から社殿造営の為の用材や資金を調達するのであるが、この時代になると、そのほとんどが武家に支配権を移し、神社側としても苦渋の選択であったに違いない。それに対し朝廷は、糺の森の木は伐ってはならないと返答し[viii]、諸大名に対し寄進させることを約束している。これは、糺の森が神の住まう森であり、その森の樹木は御神木であると考えられていたからに他ならない。
近代においては、明治4年の上知令によって、社殿の周りのみが境内地となり、結果、森の範囲も限定されることとなる。

さらに昭和9年の室戸台風とその翌年の大洪水によって数千本もの糺の森の大木が僅か97本[ix]になり果て、社殿も甚大な被害を受けた。しかしながら、災害後に神社や市民等によって後継樹木が植栽され、森自身の力によって芽生えた樹木などによって驚異的な回復を遂げている。

近年は、明治時代中頃に設立された「下鴨神社神苑保存会」、昭和27年(1952)に再編された「糺の森保勝会」を経て、昭和55年(1980)「㈶糺の森顕彰会」(現在の「㈶世界遺産賀茂御祖神社境内糺の森保存会」)が発足し、森の学術調査をはじめ枯渇していた小川の改修、市民参加の植樹活動や清掃活動等が積極的に行われ、一般市民の有志によって保存管理が行われている。昭和58年(1983)には国の史跡に指定され、平成6年(1994)にユネスコ指定の世界文化遺産に登録されたのも、この森が古の都である京都という都市にあってなお、古代からの自然と信仰が調和した神域として、人類が後世に受け継ぐべく財産として認められたあらわれであろう。

このように、糺の森も時と自然の試練を受けながらも、神奈備の森(神の住まう神聖な森)として、その時代時代の人々の畏敬の念をもって守り伝えられ今日に至っているのである。

(賀茂御祖神社 権祢宜 京條寛樹)

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[i] 『大漢和辞典』巻8 昭和52年/吉川弘文館
[ii] 『雍州府志』・『拾芥抄』・『伊呂波字類抄』
[iii] 『諸社根源記』「天武天皇御宇直澄ノ里瀬見小川」
[iv] 『御祖神社御事歴以下明細調記』明治27年/賀茂御祖神社
[v] 竹村俊則『新撰京都名所図絵』昭和36年/白川書院
[vi] 伴信友『瀬見小川』文政4年
[vii] 竹岡政治・高原光『史跡賀茂御祖神社境内花粉分析調査報告書』平成4年
森本幸裕・吉田博宣・小橋澄治『糺の森の樹木および土壌調査』平成2年/㈶糺の森顕彰会
[viii] 『親長卿記』文明2年11月25日の条「祢宜祐康県主祝秀顕県主等申、鴨多々須杜神木事為造営可伐云々、」同11月30日の条「杜樹切事不可然之由有仰云々、」
[ix] 池田政晴『京都の巨樹名木–大典記念京都植物園』昭和14年

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