糺の森コラムColumn

Vol.3

文人、糺の森納涼に遊ぶ

京都の夏は暑い。さながら焼けつく鍋底にいる思いがする。冷房がなかった時代は、どこか涼みに行かないわけにはいかなかったであろう。じっと暑さに耐えている人を見ると、つい嫌みの一つも言いたくなるのも道理である。

丈山の口が過ぎたり夕すずみ

このように詠んだのは俳人で画家の与謝蕪村である。丈山とは京都・洛北の一乗寺に詩仙堂(凹凸窠)を構えて隠棲した江戸初期の文人、石川丈山のことである。丈山は晩年、出身地の三河に帰りたいと徳川幕府に願い出たが、京都所司代板倉重宗が許さず、これに憤慨して詠んだ和歌はよく知られている。

わたらじな 瀬見の小河の 浅くとも

老いの波そふ かげもはづかし

蕪村は「つい怒りに口がすべったのだろうが、夕涼みにでかけられず、お気の毒」と皮肉ったのである。というのも、当時、京都の涼みの場所といえば、三条や四条あたりの鴨川の河原と、瀬見の小川も流れる糺の森が人気スポットであった。鴨川の河原は今日でも、夕暮れとともにアベックがズラリと並んで腰をおろし、その後ろを多くの人たちが川風に吹かれながら涼む光景が見られる。それに対して糺の森の涼み場が連日、大賑わいしたというのは意外に思うかもしれない。しかし、江戸時代の絵画や名所記などには、その人気ぶりがよく描かれている。「糺納涼は、みな月十九日より晦日に至るまで、下鴨社頭御手洗川のほとり、神の杜の木陰に茶店を設て、遊宴して炎暑を避るなり」と秋里籬島『都林泉名勝図会』は記している。御手洗川のほとりとあるが、文章に添えた奥文鳴の挿絵は、糺の森の東側を流れる泉川を描き、茶店や川床がその両岸に並び、潺湲と流れる清流の中の川床ではいままさに宴会が真っ盛りという情景である。

糺の森納涼は清らかな緑陰の遊宴の地とあって、風流な文人たちに大いに受けた。江戸中期きっての詩人龍草廬も、相国寺の文人僧大典禅師も、鴻儒とたたえられた皆川淇園も、粋な詩人ともてはやされた中島棕隠も糺の森の涼みに遊んで詩を詠み残した。文化八(一八一一)年に京都に上ってきて移り住んだ頼山陽もまたしかりである。『山陽詩集』と『山陽遺稿』に「糺林に遊ぶ」詩が四首収められている。

潺湲水石映涼棚  潺湲たる水石 涼棚に映ゆ

残照全消暗緑層  残照 全て消え 暗緑の層

要看晩流金波砕  看るを要す 晩流 金波砕くるを

未収杯去又呼灯  未だ杯を収め去らず 又た灯りを呼ぶ

涼棚は川床。清らかな小川の流れに映えて、やがて夕日も落ち暗くなると、鬱蒼たる森の緑が暗く重なる。それでも帰れない。夜の小川に月光が輝くのはまた風情がある。酒杯をおさめきれずに、いつまでも酒宴は続くのである。

 

(糺の森財団 理事・学術顧問 坂井 輝久)

平成23年3月31日

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