糺の森コラムColumn

Vol.11

糺の森の「範囲」を考える

変なタイトルで申しわけないのですが、以前から気になり続けていることを申します。

モリという日本語は「盛る」からきていて、樹木が茂って盛りあがっている場所をいいます。そしてその多くは社叢、神のいます神聖な地として崇められていました。『万葉集』などに、「社」と書いてしばしば「モリ」と読ませるのがそれをよく物語っていますが、糺の森もそうしたモリの一つでした。

「糺」の語源はよく分かっていませんが、ここで神判が行なわれたからだという説があります。神の鎮まる聖なるモリで裁判が持たれたのでして、注意したいのは、たとえ裁かれる罪人であるとしても、人がモリという神域に立ち入っていたことです。今は禁足地(きんそくち)として強く立ち入りをこばむ場所を多くの神社は定めていますが、歴史のうえから言いますと、程度の差はありますが社叢は人が立ち入る、すなわち人とともにあった場所なのです。現在の糺の森のありようは、人と森が共生する、モリの本来の特徴をよく伝えています。

そこで本題ですが、平安時代の半ばごろに制定された『延喜式』という、法令実施のためのマニュアル書があります。そこに

およそ鴨御祖社南辺は四至の外に在るといえども、濫僧・屠者ら居住することを得ず。

とあります。濫僧は正規の出家を経ていない僧侶、屠者は種々の理由で動物の解体にあたる人々、をいいます。社会からはみだした階層と認識された彼らは、ともに神社の清浄を破壊し、境内の外側ではあるものの聖域をけがすとされて、住むことを禁じられたのです。

ですがこれは、彼らの「居住」がごく一般的にあったからこその禁止令ですし、そうでなければあらためてこうした法令を発布する必要はなかったでしょう。国家・政府からいえばたしかに清浄を乱すことだったでしょうが、そこに暮らす人々からすれば当然の生活の姿でした。

糺の森が下鴨神社の神域・境内であったことは論を待たないですから、この「南辺」は森の南の地、ということになります。おそらく賀茂川・高野川の合流点までの間の場所だったと思いますが、そこは社会からはみでた、かたくいえば疎外された人々をも温かく受けいれる、豊かで寛容な機能を持っていたのです。境内ではないですが、しかし鴨神の庇護の及ぶ隣接地、そういう認識だったのではないでしょうか。糺の森の南には、虐げられた人々をも受けいれる空間が広がっていたのです。モリという神社の「範囲」の内側だけで、鴨神の霊験(れいげん)がけっしてとどまるものではなかったことを見逃してはならないと思います。

 

(京都市歴史資料館館長・京都産業大学名誉教授 井上 満郎)

平成29年10月1日

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